- KEIRINグランプリとは?
- KEIRINグランプリのルールは?
- KEIRINグランプリの出場資格は?
- KEIRINグランプリ2021の賞金は?
- KEIRINグランプリに出場する9人の競輪選手は?
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競輪GP KEIRINグランプリとは
”出典:odds park”
KEIRINグランプリは、通常のトーナメント方式ではなく、その年に選ばれた9人のS級競輪選手による1レースの一発勝負だよ。
KEIRINグランプリの現在の優勝賞金は、1億円超であることや、2001年に競輪のグレード制が導入されてからはG1競走よりも格の高いグレードとして『GP』が用意されるなど、競輪における最上位のレースと位置付けられていて、その年の競輪界の「真の実力日本一決定戦」とも認識されることもある。
2007年までは、各種公営競技を代表する年末のビッグレース(中山大障害・有馬記念・東京大賞典・賞金王決定戦競走・スーパースター王座決定戦・KEIRINグランプリ)の中でも最後に行われてきたことから、その年の「ギャンブル総決算」、あるいは「公営競技界最後の大一番」の意味合いを持つレースとして位置付けられてきたよ。
2008年以降はオートレースの「スーパースター王座決定戦」が、また2014年以降は競艇の賞金女王決定戦競走がそれぞれ大晦日に行われるようになったため、こうした「総決算」や「大一番」の座をそちらに譲ることになった。
ただ、競輪界においては、KEIRINグランプリがその年の開催場のシリーズ最終日の最終レースに行なわれるため、「グランプリファイナル」とも言われている。
2019年に東京大賞典に売り上げを抜かれたけど、2018年までは中央競馬を除く各種公営競技のレースとしては最大の売り上げを持つ競走だったんだよ。
現在は、毎年12月28日から12月30日までの3日間が「グランプリシリーズ」と題して寺内大吉記念杯競輪がアンダーカードとして行われていて、各日最終11レースが「グランプリ」レースとなっている。
KEIRINグランプリは、1年で1番盛り上がるレースだね!
競輪GP KEIRINグランプリのルール
KEIRINグランプリは2825m(400mバンク7周)で行われるよ。
競輪はほとんどのレースでは1625m〜2025m、G1の決勝でも2425m前後で行われるため、競輪における全レース中で最も競走距離が長いレースだよ。
だけど、KEIRINグランプリが開催される競輪場は固定開催じゃないから、400m以外のバンクを持つ競輪場での開催の可能性もあるよ
でも過去の開催場は全て400mバンクで開催されてるから、2825mでの開催が続いているよ!
KEIRINグランプリは7周も走らないといけないから、KEIRINグランプリに出場する競輪選手も周回数を間違えないように数えてるって言ってるね笑
競輪GP KEIRINグランプリは誰でも出れるの?
”出典:odds park”
次にKEIRINグランプリに出場する競輪選手の選抜方法をまとめるよ!
■2021年選考基準
参加選手数 | 9名(補欠1名) |
---|---|
選考期間 | 2021年1月~11月(競輪祭最終日) |
最低出走回数 | 40出走 (1~10月までの期間) |
選抜方法 | 開催時S級在籍 (1) 開催年のG1優勝者 (2) 東京オリンピック自転車競技トラック個人種目メダル獲得者 (3) 選考委が特に認めた選手 (4) 選考用賞金獲得額上位者(同額の場合は1月~10月開催までの平均競走得点上位者) |
競輪GP KEIRINグランプリの賞金をまとめてみた!
次は、KEIRINグランプリの賞金をまとめるよ!
1着賞金は、第1回KEIRINグランプリ(1985年)が1000万円だった。
以後少しずつ増額され第13回KEIRINグランプリ(1997年)から7000万円となり、第20回KEIRINグランプリ(2004年)からは先駆けて1億円とした競艇のボートレースグランプリに合わせて1億円 に増額された。
第30回KEIRINグランプリ(2014年)ではさらに170万円増額されて1億170万円となったが、第31回KEIRINグランプリ(2015年)から第34回KEIRINグランプリ(2018年)では10万円減額されて1億160万円となっていた。
ただ、第35回KEIRINグランプリ(2019年)は本賞金が9840万円に増額されたため、副賞込みで史上最高額となる1億340万円となった。
第37回KEIRINグランプリからは更に増額され、本賞金のみで初めて1億円を突破し1億330万円となった(本賞金だけでもボートレースグランプリの優勝賞金を上回った)。
なお、この優勝賞金の1億円は競艇のボートレースグランプリと共に1レースの優勝額としては世界最高額としてギネス世界記録に認定されている(いずれも副賞込みの金額)。
近年の各着順における賞金額は、以下の通り。( )内は副賞(1着に授与)を含んだ金額。
着順 | 2021年 | 2020年 | 2019年 | 2018年 |
---|---|---|---|---|
1着 | 10,330万円 | 9,840万円 (1億340万円) | 9,840万円 (1億340万円) | 9,660万円 (1億160万円) |
2着 | 2195万円 | 2090万円 | 2090万円 | 2054万円 |
3着 | 1328万円 | 1265万円 | 1265万円 | 1242万円 |
4着 | 896万円 | 853万円 | 853万円 | 837万円 |
5着 | 743万円 | 708万円 | 708万円 | 695万円 |
6着 | 645万円 | 614万円 | 614万円 | 603万円 |
7着 | 613万円 | 584万円 | 584万円 | 573万円 |
8着 | 590万円 | 562万円 | 562万円 | 552万円 |
9着 | 569万円 | 542万円 | 542万円 | 532万円 |
KEIRINグランプリで優勝したら、1億円も貰えるんだね!
状況によっては、優勝=賞金王にもなるよね笑
KEIRINグランプリ2021出場選手 【松浦悠士】
”出典:けいりんマルシェ”
氏名(よみがな) | 松浦悠士 (マツウラ ユウジ) |
---|---|
期別 | 98期 |
登録番号 | 14681 |
生年月日 | 1990年11月21日 |
登録地 | 広島県 |
身長 | 168.0cm |
血液型 | O型 |
ホームバンク | 広島 |
出場資格 賞金ランキング | 【日本選手権競輪(G1)】優勝 賞金ランキング 1位 |
”以下引用:KEIRINグランプリ公式サイト”
西の松浦、東の郡司。
「西の松浦、東の郡司」。現在の輪界で西の横綱と称される松浦は、東の横綱の郡司が生まれた2カ月半後、1990年11月21日に誕生。“こうへい”少年が白球を追いかけている頃、“ゆうじ”少年はプールで泳いでいた。広島市立広島工業高等学校へ進学すると水泳部がなかったため、自転車競技部へ入部。3年間の結果は総体8位、国体7位と素質は十分ながら、「HERO」からはまだ遠い場所にいた。
味わった降格の怖さ
恩師に背中を押されて競輪学校に入学し、卒業したのは2010年のこと。7月に熊本競輪でデビュー、3年後にはS級へ昇格と順調にキャリアアップをしているように見られたが、わずか半年でA級に降格してしまったのである。落ちる怖さを知った。意識を変えるしかなかった。勝っても負けても原因はすべて自分にあると自覚し、常に自分を見つめ直して、“競輪”と真摯に向き合った。効率よくレースで生かせる練習を心がけて、鍛え直すこと1年。2015年にS級2班へ再昇格すると、いきなりS級初勝利、初優参、初優勝、完全優勝。翌年には記念優参、G1初勝利と自在な走りで怒濤の進撃を始めたのである。そして2018年、地元の広島記念で初優勝を果たす。数年前まではそこで満足してしまう程度の選手だったが、大きな挫折から這い上がってきた者の意識は変わっていた。グランプリ出場は夢ではなく、現実に近づいているという確信。2019年の全日本選抜競輪で初のG1決勝進出を果たすと、ビッグ決勝の常連へ。そして迎えた11月の競輪祭にて、遂に現実となる。G1初制覇。賞金ではなく、タイトルでのGP出場権獲得。
3度目のグランプリ
初のGPは7着と惨敗…。だが、もうそこで終わる男ではない。翌年もオールスター競輪(G1)を獲ってGP出場。しかし、またもや8着と惨敗…。いや、まだまだ。今年も年頭から公言していた「ダービーで勝つ」を有言実行し、日本選手権(G1)のタイトルを引っ提げてのGP出場を決めた。常に競輪のことだけを考えている男がその頂に立ち、「HERO」となったご褒美で食べる好物のスイーツは、きっと格別なものになるだろう。
KEIRINグランプリ出場選手 【郡司浩平】
”出典:けいりんマルシェ”
氏名(よみがな) | 郡司浩平 (グンジ コウヘイ) |
---|---|
期別 | 99期 |
登録番号 | 14741 |
生年月日 | 1990年9月4日 |
登録地 | 神奈川県 |
身長 | 167.0cm |
血液型 | A型 |
ホームバンク | 川崎 |
出場資格 賞金ランキング | 【読売新聞社杯全日本選抜競輪(G1)】優勝 賞金ランキング 2位 |
”以下引用:KEIRINグランプリ公式サイト”
野球少年郡司浩平
1990年9月4日、神奈川県横浜市で生まれた彼は、物心が付いた頃から野球に打ち込んだ。そして全日本リトルリーグ野球選手権大会で優勝して頂点に立ち、人生初の「HERO」となった。その後、高校野球の名門“Y校”こと横浜市立横浜商業高等学校へ進むが、甲子園出場の夢を叶えることはできなかった。人生初の挫折…。
競輪の道へ
将来の目標を見失った彼は、父であり競輪選手であった郡司盛夫に弟子入りを志願する。トレーニングは想像を絶するキツさで、競輪に面白さを見出すことはできなかった。だが、師匠となった父に誓い、選手になると決めたからには諦めるわけにはいかなかった。必死の練習の末、2009年に日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)へ入学。在校競走成績10位で卒業し、2011年にホームバンクの川崎競輪場でデビューした。2013年にS級へ昇格し、2016年に和歌山競輪場で記念初優勝。2017年の第1回ウィナーズカップ(G2)にて、ビッグレース初戴冠を果たす。しかし同年、翌年のKEIRINグランプリ出場はならなかった。
GPへの想い
2019年の第35回共同通信社杯(G2)で2度目のビッグ優勝。この年にGP初出場を叶えるが、何かが違った。出させてもらうのではなく、G1を獲って出たい。
昨年、第62回競輪祭(G1)にて“競輪王”となり、それは成された。地元・神奈川県の平塚競輪場で開催されたGP出場。優勝が期待されるも、結果は9着。人生で幾度めかの挫折…。だが、彼はもう違った。ようやく1人の競輪選手になったと実感している。競輪の面白さもわかっている。だからこそ、今年2月の初G1、全日本選抜競輪で優勝。ホームの川崎に錦を飾り、師匠である父と涙して、早々にGP出場を決めた。あとはもう、年末に勝つだけだ。舞台は静岡、南関東地区。地元で勝ってこそのエースならば、競輪界の頂点に立ち、再び「HERO」となる。
KEIRINグランプリ出場選手 【平原康多】
”出典:けいりんマルシェ”
氏名(よみがな) | 平原康多 (ヒラハラ コウタ) |
---|---|
期別 | 87期 |
登録番号 | 13841 |
生年月日 | 1982年6月11日 |
登録地 | 埼玉県 |
身長 | 184.0cm |
血液型 | A型 |
ホームバンク | 西武園 |
出場資格 賞金ランキング | 【寛仁親王牌(G1)】優勝 賞金ランキング 3位 |
”以下引用:KEIRINグランプリ公式サイト”
父の背中を追って
“準地元”である弥彦競輪場で行われた寛仁親王牌にて「震えるくらいの声援」を受けて優勝し、今年5番目のGP出場枠を獲得したのは平原康多であった。1982年6月11日生まれ。新潟県西蒲原郡弥彦村の隣、岩室村で中学まで過ごした後、埼玉県狭山市へ移住し、埼玉県立川越工業高等学校へ入学。“こうた”少年にとっての「HERO」であった元競輪選手の父・平原康広の背中を追うように自転車競技部へ。練習に励み、ジュニア世界自転車競技大会など国際大会に出場するほどの選手となった。この自転車競技部で2学年下にいたのが宿口陽一である。
順風満帆な競輪人生
高校を卒業し、87期生として日本競輪学校へ入学。2002年8月5日、西武園競輪場でデビューし、同年12月に初優勝を飾った。2年後の2004年、S級昇進。翌年6月のふるさとダービー(かつてのG2)にてビッグレース初出場&準決勝進出を果たし、以来G1&G2の常連選手になっていく。2006年の同レースでG2初優勝。同年の全日本選抜ではG1決勝に初めて進出した。2007年、全日本選抜競輪(G1)準優勝。そして翌年ついにKEIRINグランプリ初出場を叶える。翌2009年の高松宮記念杯競輪(G1)にて、後に“ゴールデンコンビ”と呼ばれる武田豊樹との連係から抜け出し、G1初優勝を果たした。同年末、2年連続でのGP出場。さらに翌2010年には高松宮記念杯競輪(G1)連覇、3年連続となるGP出場を決めた。
大スランプからの復活
順風満帆な競輪人生であったが、2011年に3連覇を目指した高松宮記念杯競輪(G1)で失格を犯し、極度のスランプに陥ってしまう。GP出場を逃し、S級S班から陥落。翌2012年は記念での優勝もなく、このまま終わってしまうのではないかとも心配された。しかし、2013年の全日本選抜競輪(G1)にて涙の復活優勝を果たす。以降、昨年まで8年連続でGPに出場。そして今年も度重なる負傷を乗り越え、見事、出場枠を勝ち取ったのである。巧みな位置取りで自在に立ち回り、堅実で安定していて、選手からの信頼も厚い。競輪界最強のオールラウンダー、平原康多。G1優勝8回、G2優勝2回という華々しい記録の裏にあったスランプからの復活劇、生まれ育った故郷で応援する人々のため死力を尽くす走りに、ファンは魅了されてきた。オールスターファン投票1位となった今年。9年連続11回目でついにGP初優勝を叶え、「HERO」になってくれるとファンは信じている。
KEIRINグランプリ出場選手 【古性優作】
”出典:けいりんマルシェ”
氏名(よみがな) | 古性優作 (コショウ ユウサク) |
---|---|
期別 | 100期 |
登録番号 | 14838 |
生年月日 | 1991年2月22日 |
登録地 | 大阪府 |
身長 | 168.0cm |
血液型 | O型 |
ホームバンク | ー |
出場資格 賞金ランキング | 【オールスター競輪(G1)】優勝 賞金ランキング 4位 |
”以下引用:KEIRINグランプリ公式サイト”
BMXとの出会い
1991年2月22日、大阪府大阪市生まれ。小学生になる頃、誕生日プレゼントを買ってやるという親と一緒に行った店で出逢ったBMX用の自転車が、彼の運命を決めた。大阪では堺市にしかなかったコースをひたすら走る少年時代。中学校では体力作りのためにラグビー部に入るが、BMX中心の生活を続けた。2006年から3年連続でBMX全日本選手権ジュニア部門優勝。北京五輪から正式種目になったBMXでオリンピックに出場して「HERO」となるべく、アルバイトをしながら練習に励んでいたが、これだけで食べていくのは難しいと、競輪学校を受験する。2010年、入学。2011年に卒業後、岸和田競輪場のデビュー戦で完全優勝を果たすなど華々しい成績を収めていくが、BMXの大会にも出続けていた。二刀流と言えば聞こえはいいが、どっちつかずになってしまうのは本人も自覚。五輪を目指している選手に失礼だと思い、“本職”として競輪に専念した。
遠かったG1優勝
G1で勝てるような選手になりたいと意識した2014年頃からさらに強さが増し、グレードレース常連のスター選手となった。2016年の寛仁親王牌で初のG1決勝進出。BMXで鍛えた当たり負けしない身体で縦横無尽に暴れ回る姿から“虎将”と呼ばれるようになった男はその後、何度もG1優勝に挑んだが、どうしても頂点に辿り着かなかった。優勝できるかできないかはわずかな差だが、それが大きい。
徹底した自力強化の先に
自分はタイトルが獲れないのかもしれない…と塞ぎ込んでいた古性を奮い立たせたのは、同学年の松浦悠士と郡司浩平の存在。そして脇本雄太という巨人だった。他地区の2人は打倒脇本なのに、同地区の自分は脇本を差すことしか考えていなかったことに気づく。別線でも脇本と戦える力を付けるべく、鍛えた結果が、今年の活躍である。そして…G1決勝7回目の挑戦となった、8月のオールスター競輪(G1)でついに悲願達成。結果は脇本の番手差しであったが、脇本に自力で負けない力を付けたからこその優勝だった。BMXで鍛えたとはもう言わせない。競輪で強くなった“虎将”が、GPの頂きで輪界の「HERO」となる。
KEIRINグランプリ出場選手 【吉田拓矢】
”出典:けいりんマルシェ”
氏名(よみがな) | 吉田拓矢 (ヨシダ タクヤ) |
---|---|
期別 | 107期 |
登録番号 | 15039 |
生年月日 | 1995年5月7日 |
登録地 | 茨城県 |
身長 | 171.5cm |
血液型 | O型 |
ホームバンク | 取手 |
出場資格 賞金ランキング | 【競輪祭(G1)】優勝 賞金ランキング 5位 |
”以下引用:KEIRINグランプリ公式サイト”
水泳でHEROを目指した
“たくや”少年が最初にのめり込んだのは、水泳だった。ジュニアオリンピック水泳大会に出場したが、メドレーリレー2位、フリーリレー2位。「HERO」にはなれなかった。やがて水泳が楽しくなくなり、他の道を探している中で身近にあったのが、競輪だった。父の吉田哲也氏(51期)、叔父の吉田伸二氏(54期)は元競輪選手。自分も競輪選手になると決め、部員の9割が競輪選手を目指すと言われている茨城県立取手第一高等学校の自転車部へ入る。
強力な同期の存在
水泳に負けず劣らず楽しかった自転車競技。2013年、全国高等学校選抜自転車競技大会のポイントレース(24km)で優勝した。ジュニアナショナルチームに所属したが、世界戦のメンバーには選出されず。このときに大学進学も自転車競技もやめて、競輪一本で行こうと決めたのである。2014年、日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)へ入校。男子生徒では11人目となるゴールデンキャップ(記録会最高位)を獲得。2015年、在校競走成績6位で卒業した。同年7月1日、弥彦競輪場でデビュー初勝利。8月にA級2班へ特別昇班。デビューから13連勝し、このまま一気にS級へ駆け上がると期待されながら、同年9月の立川でつまづく。しかしその後は完全優勝を繰り返し、10月にS級2班へと特別昇級を果たした。新山響平もいる107期で最初のS級特昇。翌2016年1月に静岡競輪場でS級初優勝。同年4月には同期の新山がルーキーチャンピオンレースで優勝している。6月、吉田は高松宮記念杯競輪で初めてのG1出場。107期では一番乗りだった。一方、新山は7月に函館記念で優勝し、G3優勝最速記録を更新する。さらに新山は10月の寛仁親王牌でG1に初出場し、11月の競輪祭では107期初の決勝進出を果たす。翌2017年、吉田も6月の高松宮記念杯競輪で初のG1決勝進出。2018年、新山が100勝達成。2019年、吉田が100勝達成。2020年12月、吉田が佐世保記念でG3初優勝したとき、2着は新山だった。そして迎えた、今年の競輪祭(G1)決勝。最後の最後で差し切った相手は、新山だった。
初の大舞台へ
ここまでの歴史を見ると「同期ライバル対決を制した」と囃し立てたくなるが、吉田本人は選手全員がライバルだと言う。ライバルとはお互いを高め合える存在。そういった意味では新山響平然り、地元の大先輩で憧れの存在である武田豊樹然り、グランプリで共に走れることになった地元地区の平原康多や宿口陽一然り、追って競輪選手となった弟の吉田昌司(111期)や吉田有希(119期)然り。選手すべてがライバルだ。中でも競輪一家“吉田家”の兄弟である2人の存在は、特に己を高めてくれるはずだ。近い未来の競輪界を背負って立ち、茨城名物と呼ばれるであろう“吉田兄弟”。その先陣を切ってG1初優勝を果たし、初のグランプリ出場となった拓矢がライバルたちを押しのけて「HERO」となる。
KEIRINグランプリ出場選手 【清水裕友】
”出典:けいりんマルシェ”
氏名(よみがな) | 清水裕友 (シミズ ヒロト) |
---|---|
期別 | 107期 |
登録番号 | 15039 |
生年月日 | 1994年11月9日 |
登録地 | 山口県 |
身長 | 166.1cm |
血液型 | A型 |
ホームバンク | 防府 |
出場資格 賞金ランキング | 賞金ランキング 6位 |
”以下引用:KEIRINグランプリ公式サイト”
憧れの選手に送った手紙
月に1回は熱を出してしまうほど、身体の弱かった“ひろと”少年。鍛えるために幼稚園の年長から柔道を始めた。小学校に入ると中日ドラゴンズファンになったが、柔道が忙しくて野球をする時間はなかった。柔道漬けの毎日だったが、小学4年生のときに運命が変わる。たまたま柔道クラブが休みの日、友だちの誘いを受けて山口県が主催する自転車教室へ行った。10年後にある国体選手発掘が目的だったスクールで、自転車競技の楽しさを知ってしまったのである。これがなければ競輪選手になっていなかったと、後に語っている。小学5年生のとき、山口県ジュニアサイクルスポーツクラブへ入所。そこで初めて競輪を知り、カッコイイと思ったのが佐藤慎太郎選手だった。“ひろと”少年にとって憧れの「HERO」が出現したことで、競輪選手を目指し始める。「グランプリで慎太郎選手の前を走ります!」と書いた手紙も送った。
デビュー4年半でGP初出場
しばらくは柔道も続けていたが、中学2年生時に競輪選手になる決意を固め、誠英高等学校進学後は自転車競技一本に絞る。2010年、インターハイ「美ら海沖縄総体」のケイリンで優勝。アジアジュニア自転車競技大会のケイリンで2位に入り、高校卒業後は鳴り物入りで日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)に入校。「毎日同じことをするのが苦痛」だったが、耐え抜いて在校4位で卒業した。選手になったときの夢は「G1を獲って、賞金王になる」こと。2014年7月14日、武雄競輪場でデビューして完全優勝。2年後の2016年1月にS級へ上がったが、成績が振るわず。翌2017年前期にはA級陥落という挫折を味わう。このまま終わっていく危機感を感じ、それまではなんとなく練習して、なんとなく走っていたところを、一本一本レースを想定しながら練習したり、乗り方をいろいろと変えてみたり。「自転車のことを考える」練習に取り組むようになって、みるみると力を付けていった。競輪の楽しさも覚えた。するとすぐさま特進してS級へ復帰。同年9月には地元でS級初優勝を果たす。2018年には全日本選抜でG1初参戦。9月の共同通信社杯では僅差の準優勝。10月の寛仁親王牌でG1初優出。そして年頭に掲げていた、地元「防府記念を獲る!」という目標を叶え、11月に記念初優勝を果たしたのである。人生で最も嬉しかった瞬間だった。さらに競輪祭でも優出して3着に入り、デビューからわずか4年半でグランプリ出場を決めた。
KEIRINグランプリ出場選手 【佐藤慎太郎】
”出典:けいりんマルシェ”
氏名(よみがな) | 佐藤慎太郎 (サトウ シンタロウ) |
---|---|
期別 | 78期 |
登録番号 | 13162 |
生年月日 | 1976年11月7日 |
登録地 | 福島県 |
身長 | 165.0cm |
血液型 | AB型 |
ホームバンク | いわき平 |
出場資格 賞金ランキング | 賞金ランキング 7位 |
”以下引用:KEIRINグランプリ公式サイト”
競輪ファンの父の影響で競輪の道へ
子供の頃、競輪ファンだった父に連れられて、よくレースを観に行っていた。父はいつもこんなことを言っていた。「俺みたいな会社員は1カ月みっちり働いても何十万しかもらえねぇけど、競輪選手はたった3分走っただけで大金を稼ぐんだよ」。“しんたろう”少年は「会社員にはなりたくないな」とは思ったが、だからといって競輪選手になりたいとか、競輪が好きになるというわけではなかった。一緒に競輪場へ行くのは、父や仲間の競輪ファンが勝ったらくれるお小遣い目当てだった。中学の3年間は野球をやっていた。当時思っていたのは、野球という団体競技は1人がミスをしただけで負けてしまうし、1人が活躍しても勝てるわけじゃないということ。それに対し自転車は個人競技だから、自分が努力すればどうにかなる。強豪自転車競技部のある学校法人石川高等学校へ進んだ。選手になれるかわからないが3年間やってみようと思っていたとき、父に宇都宮競輪へ連れて行かれた。1993年、オールスター競輪決勝。神山雄一郎が初めてG1で優勝する姿を目の当たりにして「いつか自分もこんな大きな舞台で走ってみたい」と本気でプロを意識し、競輪で「HERO」になる夢を抱く。
競輪界のトップへと成長
本人は「暗示」というが、良く言えば父の「英才教育」が実を結び、1995年に日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)入校。合格まで2回かかったが、当時は5、6回落ちて当たり前。順調といえば順調。しかし、一発合格のエリート組には敵わなかった。それでも勝つために佐藤は「追込み」を磨いていく。翌年、在校13位で卒業して地元のいわき平競輪場でデビューし、B級優勝。1998年にA級初優勝。1999年にS級へ昇級すると、逃げが通用しなくなり、満を持して追込みにまわった。同年10月にS級初優勝。2001年には北日本を代表するマーク屋となってG1常連へと成長。2002年にはG1決勝の常連へと飛躍する。そして2003年、当時は11月開催だった全日本選抜競輪にて、G1初優勝を果たすのである。以降、4年連続でグランプリに出場するなど、競輪界のトップ選手として君臨し続けてた。
選手生命の危機とファンの存在
しかし人生、そう上手くはいかない。2007年に落車や失格が相次いでグランプリ出場を逃すと、翌2008年には落車事故による右足くるぶし剥離骨折。5カ月間の戦線離脱を余儀なくされた。医者からは、もう走れないかもしれないと言われていた。そんな時期にも応援メッセージをくれる人たちがいた。競輪ファンである。元通りに走れるかわからない中、復帰を信じて待ってくれている人たちがいる。そういう人たちのためにも、もう1回頑張らなくてはならない。佐藤は復活を果たした。競輪を走れることの大切さを、身にしみて感じた。G1優勝には届かなかったが、決勝には顔を出す強豪にまで脚力を戻した。2016年、史上27人目となる生涯獲得賞金10億円を突破。そして2019年、43歳1カ月という史上2番目の高齢記録でグランプリ優勝を成し遂げたことは記憶に新しい。あきらめずに応援してくれたファン、あきらめずにがんばり続けた慎太郎。「ガハハ!」と笑いながらも裏ではたゆまず努力を続け、自分を支えてくれる人々のために全力で走り続けた結果の3年連続グランプリ出場だ。ファンを愛し、ファンに愛される男が再び「HERO」に返り咲く姿を、みんなが望んでいる。
KEIRINグランプリ出場選手 【守澤太志】
”出典:けいりんマルシェ”
氏名(よみがな) | 守澤太志 (モリサワ フトシ) |
---|---|
期別 | 96期 |
登録番号 | 14501 |
生年月日 | 1985年7月20日 |
登録地 | 秋田県 |
身長 | 170.7cm |
血液型 | B型 |
ホームバンク | ー |
出場資格 賞金ランキング | 賞金ランキング 8位 |
”以下引用:KEIRINグランプリ公式サイト”
中長距離界のHERO、守澤
冬には雪が降り積もる秋田県大仙市で生まれ育った“ふとし”少年がスキー板を履くのは必然だった。小学4年生から始めたアルペンスキー。しかし、長く続けるにはお金もかかってしまう。将来のこと、そして親のことを考えて、中学のときに辞めた。家の近くにあった秋田県立大曲農業高等学校の自転車部が強豪だと知り、進学して入部した。2003年、高校3年生のときにインターハイのポイントレースで優勝する。当時、同じ大会の1㎞タイムトライアルで優勝したのは同級生だった新田祐大である。高校卒業後は明治大学商学部へ進み、自転車部に所属した。2005年、大学2年生のときに国体のポイントレースで優勝。2007年、大学4年生のときには全日本大学対抗選手権(インカレ)の個人ロードレースで優勝している。ポイントレースやロードレースというのは自転車競技の中で「中長距離種目」にあたり、その世界で守澤はすでに「HERO」であった。
競輪界でトップを目指して
しかし守澤は大学を中退し、「短距離種目」である競輪の道を志すことにした。いわばマラソンのトップ選手が100m走で頂点を目指そうというものだとも言われ、傍から見れば無謀な挑戦とも思えた。2008年、日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)へ入校。同期には深谷知広がいた。2009年、在校成績10位で卒業。卒業記念レースは2位だった。同年7月に青森競輪場でデビューするが、結果は準優勝。初優勝は1カ月後の静岡競輪場である。それでも1年半で14回の優勝を重ねて、2010年のルーキーチャンピオンレースへ出場。結果は4着。1着は深谷知広だった。当時守澤はA級での出場だったが、深谷はすでにS級へ昇級していた。2011年1月にS級へ昇格。しかし力及ばず、翌年A級へ降格。2013年、再びS級へ復帰すると番手をまわるようになり、成績が安定し始めた。2014年、寛仁親王牌でG1初出場。2015年、富山競輪でS級初優勝を果たす。デビューから6年目のことだった。2016年からG1出場回数が増えていき、6月の久留米記念でG3初優勝。9月の共同通信社杯でビッグレース初優出を叶える。2017年、日本選手権でG1初の決勝進出を果たした。その後落車や失格が相次ぎ、2018年には一時S級2班へ降班してしまうが、2019年にS級1班へ復帰すると、その年は事故なく級班を守り切る。そして2020年、F1で優勝を重ね、ウィナーズカップで準優勝。G1で着をまとめ、気付けば賞金ランキング9位。10位の山田英明とわずか180万円の差で、初のグランプリ出場を成し遂げたのである。
競輪界No.1の差し脚武器に
経歴の示す通り、強い選手ではあるけれど、競輪界のスターというほどの派手さはない。今年も6月の別府記念では優勝しているが、これまで12年の競輪人生でグレードレース優勝はG3の2回だけ。ビッグレース優勝歴はなし。それでも今年も獲得賞金ランキング8位で2年連続グランプリ出場を決めた。なぜなのか。それは間違いなく、学生時代に中長距離で鍛えたスタミナだ。直線での追込み、差し脚は競輪界ナンバーワンと言っても過言ではないだろう。だからこそ、ビッグレースの決勝常連であり、優勝には届かないものの、確定板には乗ってきている。その積み重ねのグランプリ出場だ。同級生の新田祐大や同期の深谷知広は出場が叶わなかった。競輪。それは単に短距離の自転車競技ではなく、総合力の戦い。守澤のような選手がグランプリで勝って「HERO」になることを、“競輪”ファンは望んで止まない。
KEIRINグランプリ出場選手 【宿口陽一】
”出典:けいりんマルシェ”
氏名(よみがな) | 宿口陽一 (ヤドグチ ヨウイチ) |
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期別 | 91期 |
登録番号 | 14152 |
生年月日 | 1984年4月3日 |
登録地 | 埼玉県 |
身長 | 168.6cm |
血液型 | AB型 |
ホームバンク | 大宮 |
出場資格 賞金ランキング | 【高松宮記念杯(G1)】優勝 賞金ランキング 10位 |
”以下引用:KEIRINグランプリ公式サイト”
同県のエースの存在
「平原さん、やりました!」今年の6月20日、岸和田競輪場で行われた第72回高松宮記念杯競輪にて、キャリア初のG1決勝進出を果たし、見事初優勝を成し遂げた「HERO」が発したのは、同県のエースで大先輩へ向けた言葉だった。1984年4月3日生まれ。埼玉県ふじみ野市出身の陽一は中学で陸上をやっていたが、埼玉県立川越工業高等学校へ入学すると兄の潤平が所属していた自転車競技部へ。そこで兄と同学年の先輩だったのが、平原康多である。高校総体2位、国体6位という十分な成績を掲げて兄と共に競輪学校へ入学。先に選手となっていた平原を追うように2006年小田原競輪場でデビューし、初優勝するまでには1年弱かかってしまったものの、S級優勝まではわずか2年という早さだった。
苦労人、宿口陽一
そのまま大先輩のようにビッグ決勝常連選手になっていくかと思われたが、足踏みをしてしまう。特別競輪初出場はデビューから5年後の2011年、共同通信社杯秋本番(G2)の3日目補充であった。正選手としての初出場は2018年のウィナーズカップ(G2)と、デビューから12年後のこと。以降はグレードレースの常連にはなるが、決勝進出は一度もなかった。今年1月に通算300勝を達成するも、記念優勝のない、苦労人。それでも突き放すことはなく、共に練習をしてきた平原はわかっていたのかもしれない。いつか輝くときが来ることを…。ゆっくりではあるが確実に成績は上がってきていた。今年2月の奈良記念で決勝進出。全日本選抜競輪(G1)でも3日目に1着を獲った。3月の宇都宮(G3)も決勝へ。5月の日本選手権競輪(G1)でも1着、3着、4着、2着と好成績を並べた。
掴みとった夢の舞台
「予感は全然なかった」と本人は話すが、周りは感じていたはずだ。特に20年以上の付き合いで一番近くにいた平原はそれをわかっていたからこそ、左肘骨折で欠場しながらも自宅のテレビにかじりつき、高松宮記念杯競輪(G1)優勝を目の当たりにして「自分のことより嬉しい」と涙をこぼしたのであろう。「今はまだGPを走れるような選手じゃない」と本人は謙遜するが、その後の活躍を見れば、どれほどの努力をしているかファンはわかっている。年末の静岡で大先輩と連携して「HERO」になることを、ファンは皆、祈っている。
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